-Bass-EssayBLOG

【ダンモの話 Part 3 】

前回まで2回にわたって大学ジャズ研の昔話を書いてきたことには理由がある。

卒業(してないけれど)後、一部の同期友人を除いてほとんど縁がなかったダンモ関連のつながりが、2011年、東日本大震災の年に開催されたダンモ50周年イベントをきっかけに再起動し始めた。

当時ぼくは北海道小樽に住んでいた。
1998年に東京を離れ、小樽でビアレストランのライブショーバンドやイベントのプロデュース、音楽レーベルの運営という仕事が中心になっていて、演奏活動もしてはいたがジャズの世界からは少し距離があった。
「ジャズシーン」的なところから離れている引け目と同時に、自分が「ジャズベーシスト」とカテゴライズされることへの抵抗を感じていた。
共演しているミュージシャンがぼくのことを「ジャズベーシストの飯田さん」と書いているを見て「ジャズ」という言葉を外して欲しいと頼んだこともある。
もちろんジャズ自体が嫌なわけではなく、世間で言われる「ジャズ」というイメージの枠や、その保守性に抵抗があったのだ。
先に書いたダンモ時代の話には出てこないが、その後出会って大きな影響を受けた師匠の故・齋藤徹さんや廣木光一さんとの共演で、タンゴ、即興、邦楽、ブラジル音楽など、一般的なジャズの枠とは異なる、しかし圧倒的で強烈な音楽体験があった。そしてそれを経てあえて東京を離れてからも自分のオリジナルな音楽を追求したかったぼくには「ジャズ」という言葉、あるいはその言葉に基づいてリスナーから期待されるイメージは足かせのようですらあった。
「ダンモ」も然りである。
そういう事情や思いがぼくの中に「ダンモ的なもの」への抵抗感を醸成していた。

ダンモ50周年イベントは、プロとして活躍している第一線のミュージシャンや創成期の先輩方が多く出演する大イベントだった。
タモリさん出演ということもあり、OBだけでなくその知人友人含めかなりの動員規模のイベントになった。
ぼくはというと、現役時代からほぼ20年が経過して「ダンモ的なものへの抵抗感」も、よく考えると大したことでは無いかも、と思い始め、参加することにした。
同期友人や近い世代の先輩後輩とも再会でき、イベントも大盛況で、昔はこわかった先輩も優しかったりして、ぼくの中の「ダンモ的なものへの抵抗感」はゆるやかに溶け始めた。

その後ぼくは東京に戻り、時折ダンモOB会主催のセッションやイベントに顔を出すようになった。
数年前から縁あってOB会役員会の末席に名を連ねることになり、イベントの企画やWEBサイト制作などに関わっている。
50歳になるぼくだが、役員の中で最年少だ。

ダンモOB会は、年代をダンモの卒業年度を基準にしていて、ぼくは93年卒という代。
実はぼくたちより数年下からしばらくの間の代では、OB会との交流が途切れている。
何か原因やきっかけがあるのかもしれないが、よく分からない。
ぼく自身が先述のように、ダンモに対して心理的な壁を感じていたので、それが言葉にできないようなものだとしても何となく理解出来る気がする。
役員最年少ということで若い世代のOB諸氏とOB会をつなげることがぼくのミッションのひとつだと勝手に考えている。

去年あたりから、直接知っている後輩の方々に少しずつ声をかけて、イベントやセッションに来てもらっている。
ぼくと同じようにダンモへの何か消化できない感情を持ち続けていた方が、参加することでその何かが溶け始めるようなこともあるはずだと思っている。

来年2021年には60周年のイベントが行われる予定だ。


今「市場としてのジャズ」は縮小の一途だ。
しかし一方で「即興性と主体性を重んじ、同時代の新しい要素を取り入れ拡大していくジャズという音楽(これは今ぼくが考えるジャズの定義だ)」は、これからますます重要なものとなり、目に見えない形で遺伝子の様に世界に拡がっていく時代を迎える。

そんな中、ダンモOB会は、学生時代の数年間を真剣にジャズ演奏に向き合って過ごした体験をもちながら、今、様々な分野で生きている者たちが世代を超えて集まる場。何か意味があるかもしれない、いや、ないかもしれない。

最後のメッセージが、ごくごく一部の方がターゲットとなってしまうことをお許しいただきたい。

今あまりOB会とご縁のないダンモ出身の皆様、おいおい声をかけさせていただくので、是非合流してください〜

2020.1月
飯田雅春 拝

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