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「葬送のフリーレン」と「ドライブ マイ カー」

今放送中のアニメ「葬送のフリーレン」と2021年の映画「ドライブ マイ カー」を観て「ああ、同じだ」と思った。

「葬送のフリーレン」は週間少年サンデーの漫画が原作の人気アニメ。
1000年以上生きるエルフで魔法使いのフリーレンが仲間達と魔王を討伐した「その後」の旅を描く。
変則的ではあるものの「冒険もの」「バディもの」という少年漫画の王道のテーマ。
漫画は未だ連載中でアニメも毎週TV放映と配信の更新がなされている。
キャラクターの魅力と物語の世界観、アニメの演出の秀逸さなどが評価されているポイントであろうかと思う。

「ドライブ マイ カー」は村上春樹原作、濱口竜介監督による2021年公開の映画。
妻を亡くした舞台演出家の主人公と運転手を務める女性「みさき」、そして主人公が演出する多言語演劇の出演者たちが中心となり、過去の出来事と現在、多言語演劇の内容や台詞も絡み合って織りなされる物語。
最初は冷たい主人公とみさきの関係がだんだんとほぐれる中、それぞれ過去の出来事を受容していく。
作中で演じられるチェーホフの多言語劇(あの手話の表現力!)の内容も物語に含まれていく構造にも登場人物の人間味にも深みがある。

この二つの映画を「ああ、同じだ」と思ったのだ。
どういうことなのかを3つのレイヤーに分けて説明する。

レイヤー1は視覚面から、まず「葬送のフリーレン」主人公の魔法使い「フリーレン」と「ドライブマイカー」の準主役「みさき」の顔である。
顔つきと言った方が良いか。「みさき」を演じるのは三浦透子さん。

写真を見比べて欲しい。

どうですか。同じでしょ。
クールで、絶望を知っているような目。
悲しみの先でこぼれる笑顔の儚い美しさ。
ぼくには同一人物にしか見えない。ぼくが両方好きなだけかもしれないが。


レイヤー2は聴覚面。声。
特にこの2人の会話のテンション感。
基本がテンション低めで無表情な話し方。
(この点はアニメ「ゆるキャン」の主役のひとり「志摩リン」も似ている。今調べたら今年2024年4月からアニメ「ゆるキャン」シーズン3が始まるみたいだ。)
最初は冷たい印象を受けるが、だんだんとその意味も含めた背景、人物像を理解するにつれ、その声とトーンに心地よい共感を覚えはじめる。

そして一番大事なレイヤー3は「源泉」だ。
あ、今「源泉徴収税」を思い浮かべたあなた、タイミングが悪くて申し訳ない。
しかしこれはもうすぐ締切の確定申告の話ではなくて、文字通り温泉で使う意味での「源泉」である。
(ちなみに確定申告は締めきりすぎても普通に提出できるのでご安心を)

この二つの物語は同じ源泉から湧きだした姉妹(兄弟)作品なのだ。

全ての創造物はアイディア(着想)から生まれる。
そのアイディアの種は空中のどこにでもに存在していて、人は様々な方法でそこにアクセスしてアイディアを受け取り、作品を作ったり、仕事をしたり、友だちを作ったりする。
そのアイディアには、個人的なものもあれば人類共通のスケールの大きなものもあって、スケールの大きなアイディアにアクセスするには技術や経験が必要だ。
原作者の村上春樹氏も書いていた事だったと思うが、そういった人類共通の大きなアイディアは深い階層にあるので、そこまで降りていくには、深い海に潜るのと同じように技術が必要で危険も伴う。
ぼくはそう捉えている。
この宇宙には、人類にとって大事なことを色々な人が色々な形で具現化するように、そのアイディアがプリインストールされているのだ。
この話をあまり掘り下げると長くなってしまうので、ここでは、アイディアというのはそういうものだとして話を進める。

「葬送のフリーレン」は「仲間達と一緒に旅をして魔王を討伐した」ところから話が始まる。
1000年以上生きるフリーレンにとっては人間の一生はあまりに短く、旅の仲間達はその後すぐに歳を取って死んでしまう。
旅が終わってから描かれる物語、というところがこのアニメの設定上の秀逸さの一つだがそこは置いておく。
フリーレンはかつて共に旅した仲間が死んだ時に、その仲間のことを何も知らずにいたことを嘆き、泣く。
そして死者に再び会えるという場所を目指して新しい旅を始める。

「喪失」から始まり、その喪った意味を探し、そして受け取る旅の物語である。
だから、度々回想シーンが出てくる。
旅の途中で色んな敵や魔物が現れて魔法で戦うのだが、その時にも必ずといっていいくらい、かつての仲間との旅や師匠の元での修行時代の回想シーンが挿入される。
戦いの中で、回想を通じて過去に向き合い、その意味が少しずつリニューアルされる。
過去の意味の変化によって、さらに今を生き抜いていく。
過去と現在が同時に進んでいる、といってもよい。「喪失した過去を受容しながらよりよく生きること」が裏にあるテーマなのだ。

一方「ドライブ マイ カー」では主人公は娘を4歳で病気で亡くしている。
愛する妻が浮気をしている事を知っているが関係を壊すのが怖くて言い出せないままその妻も急病で亡くなる。
そして「みさき」は事故にあったときに母を見殺しにしたことを心に抱えている。
会ったこともなく、生きているかどうかも分からない父のゆかりの地で、ドライバーとして暮らしている。
劇中劇で扱われるチェーホフの「ワーニャ伯父さん」は多言語劇で日本語、英語、北京語、韓国語、ドイツ語、韓国手話で話が進む。
父親と共通言語は最初から喪われている。

クライマックスでは主人公とみさきは北海道に向かう。
道中、2人はそれぞれの過去の秘密を話す。
旅をしながら、自分たちの喪った過去を受容していく。
タイトルの「ドライブ マイ カー」は「You drive my car」であると同時に「I drive my car」つまり「私は私の人生を生きる」ということだ。
そして「葬送のフリーレン」と同じく「喪失した過去を受容しながらよりよく生きること」がテーマである。

この二つの作品はそういう意味で、同じアイディアの源泉にアクセスした結果生まれたものだ、というのがぼくの見立てである。
主人公が似ている、というのはその大事な証拠だと思う。
なぜならそのアイディアにアクセスした人(たち)がイメージした像が共通しているということだから。
(「ドライブマイカー」の濱口監督は別の作品のオーディションで三浦透子さんに出会い「あぁ、みさきがいた」と感じたらしい。監督の中にみさき像が既にあったことが伺える。)

また「葬送のフリーレン」はフリーレンとその仲間達の「旅」の物語であり、「ドライブマイカー」も様々に「旅」を描く物語である(東京〜広島〜北海道という物理的な旅、車中で語られる会話、人生の旅、ちょっとロードムービーっぽさもある)というところも共通している。

このように同じ時代に同じ源泉からのバリエーションで作品が生まれることは珍しくない。
そして、それにも意味がある。

震災、コロナ以降という時代の今「喪失した過去を受容しながらよりよく生きること=旅を続けること」はぼくたちにとって共通の大きなテーマなのだから。


*この2つの作品について「テーマが同じだから片方観ればそれで良い」ということはありません。両方観ることをおすすめします。

「葬送のフリーレン」https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0CJRDF9JB/ref=atv_dp_share_cu_r



「ドライブ マイ カー」https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B6RSV1PV/ref=atv_dp_share_cu_r